こんにちは。
ネタが無くなってしまったので自分のことでも書いてみようと思います。
IT業界の門を叩いて25年、思い返すといろいろなことがありました。
私は子供の頃から喘息持ちなのですが、それを親のせいにしたり、引きこもりの理由にしたりと、今思えばどうしようもない甘ったれたクソガキでした。
早い段階で親元を離れてひとり暮らしに踏み切った人生の選択は自分にとって正解だったと思っています。
上京後の生活はいつもカツカツでボロを着ていましたが、専門学校と家の往復でひたすらプログラミングするだけだったので、さほど苦に感じませんでした。
体が弱く疲れが溜まると発作が出るし、かつ学歴もない私にとって、IT企業への就職は人生一発逆転の第一歩でした。
夏は涼しく冬は暖かいオフィスワークで、学歴関係なしのIT業界は私にとって希望の星だったのです。
ほんとおめでたいヤツでしたね。
2年間みっちりプログラミングを学び、意気揚々と私はIT業界へ足を踏み入れました。そして悲しい現実を目の当たりにします。
IT業界は希望で満ち溢れた世界だと信じてやまなかった私に神は試練を与えたのです。
当時IT業界はブラック全盛期でした。過酷な労働環境と、SESの多重下請け構造(ITドカタ)がまん延した世界であり、そこで地獄を見た私はあまりの辛さに耐えられず3度敗走することになります。
多くの同期と同僚先輩たちが疲弊していく中、病気持ちの自分ではそう長くは持たないことを察した私は将来設計の甘さに絶望します。
がしかし、人生というものは何が起きるか分からないものです。
健康な同僚たちが鬱病となり業界を去っていく中、病気持ちの私がなぜか生き残り、今こうしてIT業界で管理職として働いています。
今日はそんなIT業界サバイバルを私がどうやって生き抜いてきたか話したいと思います。
目次
- 親が助けてくれると思っていた
- 学歴無し引きこもり
- C言語との出会い
- バイト先で処世術を学んだ
- 配属ガチャ、1度目の敗走
- SES、発作、2度目の敗走
- 人生最大のミス、3度目の敗走
- 意外な人が救ってくれた
- SESブラック脱出、自社開発の道へ
親が助けてくれると思っていた
幼少期は酸素テントに入るくらいの重い喘息を患っており、母親はベッドの横で泣いていて、ばあちゃんからはいつも「代わってあげたい」と言われていました。幼稚園は半分しか通えませんでした。
小学校低学年になってもまだ酷くて、発作が起きると2~3週間は入院していました。咳が酷く肺炎にもなったりしました。夜中もよく緊急外来に行っていました。
あまりにも酷いので主治医から、重い喘息を持った子供が通う全寮制の学校へ行くかと話が出たくらいです。
そんなもんだから激しい運動はすべて免除で、つらいマラソン大会も見学。「ずるい、ずるい」と同級生から白い目で見られていました。喘息は昼間はあまり発作が起きないので、周りから見れば普通の子供だったのです。
いつからか、自分には喘息があるから何でも免除されるんだと、変な勘違いをするようになりました。
そして嫌なことがあると逃げ出し、親が守ってくれるから大丈夫だろうと、甘ちゃんな日々を過ごしていました。
学歴無し引きこもり
中学まで喘息が出ていて、相変わらずマラソン練習免除で周りから白い目で見られイジメもあって、性格がひん曲がっていきました。
高校はなんとか卒業させてもらいましたが、見事に引きこもりとなりました。この頃が人生で最も落ちていた時だと思います。バイトをちょっとやっていましたが、人と話したくなかったので迷わず深夜バイトにしました。
毎日消えて無くなりたいと考えていましたね。
無気力でした。
唯一の救いは、高校生になって殆ど喘息発作が出なくなったことです。
C言語との出会い
Windows95爆売れ!インターネット到来!の件があり、私は人生一発逆転をかけて上京しました。
専門学校へ通い、1日18時間プログラミングなんてのをやっていました。
パソコンの電源の入れ方も分からない私がそんなにもプログラミングにハマれたのはC言語のおかげです。
今はスクリプト言語が主流ですが、当時は業界の標準はC言語が当たり前で、ゲーム開発も殆どがCでした。アセンブラもありましたが、私は圧倒的にCが好きでした。
C言語での開発は今のフレームワークと違って、すべてのコードを自分で記述するので自由にプログラムを書けたのが楽しかったですね。
1000ステップ、2000ステップとだんだん大きなプログラムが組めるようになり、卒業する頃には10000ステップを超えるものを組んでいました。
レジスタも学んでハードウェアの勉強もしました。
このときに行った勉強が10年後に自分を救うなんて当時は夢にも思いませんでしたけどね。その話はまた今度。
バイト先で処世術を学んだ
専門学校2年の後半からIT企業にバイトとして出入りしてシステムを作っていました。今で言うインターンシップですかね。小さいお店の顧客管理システムを2週間くらいで作って10万円くらい頂いてました。
当時はVisualBasicでの開発が多かったですね。
プログラミングばかりしていて仲の良い友達ができなかったので、バイト先の社員さんから飲み会に誘われたら必ず参加するようにしたところ、そこで知り合った部長さんによくしてもらえて、仕事をもらえるようになりました。バイト先の新入社員の人たちにC言語を教える講師の仕事で、この頃から病気持ちの自分でもIT業界なら稼げるという確信を得られるようになりました。
同時に人脈がすべての鍵を握るということを意識するようになり、イベントがあるごとに積極的に参加して自己啓発やビジネス書を好んで読むようになりました。
配属ガチャ、1度目の敗走
バイト先から「うちに来ないか」と誘っていただいたのですが、既に別の企業から内定を頂いていたので丁重にお断りし、念願だったIT企業の正社員として人生一発逆転計画が加速し始めました。
が、
3ヶ月間の研修を終えて配属先が発表された時、私は膝から崩れ落ちることになります。
人生とは残酷なもんです。
私の配属先にはプログラミングの仕事が無かったのです。
3つの事業部があってその内2つはシステム開発を行っており研修中にガンガンアピールしていたのですが、私の声は届かなかったようです。
夢にまで見たプログラマーへの道は閉ざされました。
頭が真っ白なまま懇親会に参加し、どうやって家に帰ったか覚えていませんでした。
数日後、人事部へ行って退職願いを出し受理してもらい、その足でかつてのバイト先を訪れそのまま入社しました。人脈がすべての鍵を握ると再認識しましたね。
※研修期間後辞める新人なんて私くらいでしたので、かなりの大バカ野郎だったと思います。人事に引き留められたあと散々イヤミを言われましたが次が決まっていたので右から左でした。退職の気持ちが固まっている場合は何を言っても無駄だというのは、この時身をもって経験しました。
この時の判断が正しかったのか否か、今でも分かりません。
ただ、後悔はまったくしていないです。人生一発逆転をかけて上京して、プログラマーになることだけを目標にやってきたので、正直プログラミングさえできれば会社なんてどこでも良かったんです。
そういう意味ではキャリアプランがはっきりしていましたね。
SES、発作、2度目の敗走
バイト先の会社はSESでした。プログラミングさえできれば良かった私はそんなことは気にせず、1週間もしないで最初の出向先へ出されました。
新人ではありましたが普通にC言語が書けたので、面接はすんなり通りました。
出向先は金融でした。
で、地獄を見ます。
IT業界ブラック全盛期。
私は初めて徹夜作業を経験しました。フラフラになりました。
数日間家に帰れませんでした。
喘息発作が起きました。
高校でやっと治まった喘息がぶり返したのです。
病気には勝てず、主治医にIT業界は辞めた方が良いと言われた私は1年持たずに金融の現場を去ることになります。
「実家に帰ってフリーターでもやろう」
何もかもが嫌になってそう思っていた矢先、またもや人脈に救われます。
よくしてもらっている部長さんから別の案件を紹介してもらえたのです。
このとき、
プログラミングがいくらできてもダメだ
人脈も持ってないとダメなんだ
ということを学びます。
人生最大のミス、3度目の敗走
次の現場は当時流行っていたJavaを使っており、脱C言語のチャンスでもありました。「これからはJavaの時代だ」とあちこちで言われていて、私は人脈を広げつつJavaができる先輩の懐に入り込み、必死にJavaを覚えました。
開発言語は変わりましたが相変わらず業界全体がブラックであることはそのままで、苦労が絶えませんでした。人間的に一番成長した時期だったと思います。
この現場には長いこと居させてもらって、後半はメインプログラマーとして最前線で重要な機能を任されていました。
私は出向先で使う独自システム開発のメインを任されており、私が作ったシステムを事業部の人たちが使っていたのですが、ある日機能追加リリースした際に、とんでもないミスをやらかしてしまいます。
システムがバグって動かなくなってしまい、徹夜して調査したのですが原因分からずその間の業務はすべてストップ。
※当時のプログラムはフレームワークなんてものは無く、頭からお尻まですべてコーディングして、ヘタを打てばシステムを止めてしまうくらいの大バグを出すこともあり得たのです。
システムが止まってから2日目に入り、いったん帰宅して少し寝てシャワー浴びて、再度会社の最寄り駅まで行ったのですが、ふと立ち止まって「どの面下げて会社に行けば良いんだ」といつの間にか涙が出てきて、気付いたら会社とは別の方向に歩いていたんです。
近くを通りかかった先輩から「おまえどこに行くんだ?」と呼び止められて我に返ったのですが、人間って追い詰められると突拍子もない行動に出るということがよく分かりました。
意外な人が救ってくれた
人生最大のミスをやらかし、失意のどん底に落ちていた私を救ってくれたのは意外な人物でした。
またもや人脈に助けられたのです。
その人は別の課の課長さんでよくお酒を飲みに行く仲でした。現場で直接業務には絡んでないのですが、プログラミングが好きな人でそれで気が合ったのだと思います。
その人は管理職にも拘わらず凄腕のプログラマーという別の顔を持っており、なんと私が出したバグの原因を調べて直し方を教えてくれたのです。
私は救われました。
と同時に自分が天狗になっていたことを深く反省し、
「あの人のようなプログラマーになりたい」
と新たな目標を立てます。
SESブラック脱出、自社開発の道へ
大バグ事件のあと、私は自分のキャリアプランを真剣に考えるようになりました。転々と現場が変わるSESの世界は相変わらずブラック全盛で、人が将棋の駒のように扱われていました。
右から左に人が流され、ピンハネされ、ピラミッドの上位層にのみ金が流れるSESの構造に嫌気がさし、私は自社開発の世界に希望の光を見るようになりました。
自分の席がきちんとあって、根を張った開発ができる自社開発は業界全体の2割程度であり、転職は狭き門でした。
あっち側に行ければ・・
C言語、VisualBasic、VisualC++、Delphi、Java
当時これだけの言語を経験しており、かつリーダー経験やお客様対応もやっていたことから、それらを武器に私は裏で転職活動を始めます。
そして念願の自社開発企業から内定をいただけたのです。
IT業界の門を叩いてから6年の月日が経っていました。
ついにSESブラックの地獄から抜け出したのです。
が、
自社開発という世界は猛者の集まりでした。
まさに弱肉強食。
凄腕のプログラマーは5万といることを思い知らされた私は、弱肉強食の世界で生き抜くため、起死回生の勝負に打って出ます。